mtk13465003's diary

素敵な七十代を楽しく生きるために!

決勝リーグ進出は一次リーグの3試合を通して最後に決まるもの

サッカーワールドカップを見て思いました。
一次リーグが3試合行われるということは、3試合を通してそれぞれのチームの戦術とまみえ、自分たちのチームの戦術を対戦するチームにぶつけていきながら、練り上げていくという意味があるのではないでしょうか。
私は監督ではありませんしサッカー通でもありませんから、難しい戦術について生意気なことは言えませんが、日本チームを見ていると、一戦目に勝利する事の比重が日本全体にあまりにも大きすぎて、選手も初戦へのプレッシャーで固くなり、逆転された精神的ショックが後を引いているように思えてなりません。そのために冷静な判断力を失い、得意とするパスをつなぎながら相手のスキを突くという戦術が影をひそめてしまい、前のめりになり過ぎていたのではないでしょうか。
ギリシャチームを見ていると、一戦目勝ち点ゼロ、日本との二戦目、退場選手を出し一人少ない中で引きわけの勝ち点1、三戦目のコートジボアールに勝利し勝ち点4で決勝リーグへ進んだのです。日本との戦い方を見ていると、日本の、相手ゴールに向かうサイドからサイドへの高めのボールは長身にものいわせて、ほとんど味方ボールにし、ゴール前を固め日本のゴールを許さなかったのです。前のめりの攻撃的な日本チームに対し冷静な守備がゴールを守ったという感じでした。
絶対とされた一戦目の勝利を逃し、勝つと信じた二戦目も引き分けて、追い詰められた日本はコロンビアに勝ち越し点を与えたところで力尽きたのです。
戦い終えて、選手たちのコメントを聞きました。彼等は反省と4年後のワールドカップに向ける熱い思いを語りました。これこそスポーツの素晴らしさだと思いました。同じインテルのチームメイトであるコロンビアの選手が長友選手の肩を抱き、「また同じチームで頑張ろう」と励ましている映像には思わず胸が詰まりました。

 

ベッド派か布団派かは健康度で違う

こんなお題が出されていたような気がするので、書いてみる。
ベッドを利用していたのは、心も体も元気で、二階の寝室まで駆け足で上がれる頃、50代ぐらいまで。布団の上げ下ろしが面倒で、横になったらすぐ眠れるように。
でもそこを過ぎると階段もだんだんゆっくりになり、足元にたたんだ掛け布団も掛けるよりふくらはぎの下に置く方が気持ちが良い。どんどん動きが鈍くなり、そのうちに狭心症の発作が起きるようになり、それも間隔が短くなり発作が長くなり、バイパス手術ということになり入院。
退院して帰ってくると、2階のベッドから一階の畳の部屋にマットレスと布団を移動させて座り心地良い低いベッドにしつらえてくれてあった。夫の手際の良さにはいつも感心し、感謝している。しばらくは寝たり起きたり状態で過ごそうと思っていたが、1週間もしたらこれではいけないと思うようになった。
理由は二つあった。一つは左手左足を含む左半身が重く感じて良く眠れないのだ。まるで戦国武将が左半分だけ鎧を着て寝ているような感じなのだ。左側にある心臓に血管をつないだり、弁を替えたりしたのだから左側に違和感を感じるのはやむを得ないとは思いながらも、心配になり、インターネットでバイパス手術後の記録を調べてみた。すると私と同じように感じている元患者さんに出合ったのでほっとした。
二つ目は、病室の夢ばかりみるのだ。ICUの個室を出て、循環器の一般病棟の病室へ戻ると、そこはこの病院内で一番素敵な病室だろうと思うくらいのラッキーな環境だった。窓の下には駿府城公園のお堀と石垣が続き、公園内の様子も手に取るように見える。隣には裁判所の建物があり、その隣には私学の女子高があり、秋の学園祭を前に演劇部の練習風景が見える。目を上げるとすそ野を長くしく富士山が朝昼晩と色彩を替えゆったりと見える。女子高生たちの演劇も、望遠鏡で見ているわけではないから、うっすらと影絵のように見えるだけだが、演技者になったり、観客になったりしながら空想してみるのが何とも言えず楽しかった。そんな夢を繰り返し見るのだ。
私は自分の健康を自分で取り戻さなければこのまま寝たきりになってしまうのではないかと不安になった。そこで寝たり起きたりをやめて、少し大変でも昼間はしっかり体をおこして、出来るだけ手足を使おうと思い、簡易ベッドを片付けてもらった。夫は心配しながらも、折りたためるマットレスと布団を押し入れにしまい、出し入れができるようにしてくれた。
一寸重いものを持ったり、歩きすぎたりすると手足にこぐらがえりが起こり、その痛みをとるのに何分もさすっていなければならなかったが、それでも布団の上げ下ろしや、ウォーカーに5,6分乗ったり、階段をこっそりゆっくり歩いたりしているうちにこぐらがえりの回数も減ってきた。手足に筋肉がついたとは到底思えないが、やっていることがどんどん楽にできるようになった。それと同時に戦国武将の鎧もあまり気にならなくなった。今では二階のベッドに戻ろうとは少しも思わない。むしろ朝晩布団をひいたりたたんだりするのが、生活にメリハリがついて生きている喜びを感じる。
ベッド派か布団派かは好みではなくて、人生の時々における必要度だと思う。

5月の憂鬱

今までに5月をうっとうしく感じたことがあっただろうか。
桜吹雪の後に咲き誇るサツキやつつじ、雪柳や藤、どんな色の花が開くだろうと蕾から期待を持たせる紫陽花など、界隈を回ってはご近所の庭を覗かせてもらいながら、下手なカメラをいじりまわしていた楽しみは、5月あっての心弾む季節だったのに。
風邪なのか、ぜんそくなのか、花粉なのか、熱もないのに動悸ばかりが気になって寝苦しく、頭も体も目覚めない状態が続き、突然足が冷えたり、体が汗ばんだり、更年期障害はもう遠の昔過ぎたのに、老年期障害というのもあるのかと、インターネットでやたら探してみた。
これかなと思うものが一つあった。体の調節が上手くいかなくなった高齢者に多い「気温差アレルギー」という病名で血流を良くするような体操が回復に良いとあった。「眠れる森の婆」になってしまわないように、できるだけ体を動かそうと、周りで計画してくれたお出かけには無理のない程度に参加した。
でも気分の滅入っている時は計画にも当たりはずれがあり、熊野の長藤は見学の座り台を片付ける大工さん達と藤の最期を惜しみ、能舞台だけを見学した。加茂の花菖蒲園は菖蒲は1分ぐらいしか咲いておらず、見頃は6月いっぱいだという。でもせっかく行ったので、庄屋さんの立派な部屋の数々を庄屋の奥方か娘になったつもりでそろそろと歩いた。お出かけの後は疲れがとれるまでに数日はかかり、また「眠れる森の婆」になる。
ある日、夫の岐阜時代の同僚の訃報が届き、電話のやり取りが何度となく続いた。近くに住む友人がお香典をまとめてくださるというので、夫も現金書留封筒を求めて送金したりしていた。そんな時電話が入り、応対に出た私はてっきり夫の同僚の方と思い、頓珍漢な対応をしてしまった。再び電話が鳴って「明日香のお母さんですよね。旧姓依田です。明日香がメールも電話もこないけど、どうかしたのではないかと心配しています。メールか電話してやってください。」という親切な内容だった。
知子さんは先日ハワイで二人だけの結婚式を挙げ、花嫁の付き人に明日香だけが出席したのだった。高校時代からの親友で家には何度も行き来している仲だったのに、結婚して姓が変わったのをうっかりして夫の同僚と間違えてしまったのだ。知子さんは(明日香のお母さんもとうとう認知症になってしまったのか)と思ったに違いないと急いでパソコンを開いて見た。何と明日香から2通もメールがきていた。私が10回書くうちに1回返事があればいい方なのに虫が知らせたというのであろうか。
憂鬱な5月が終わって、梅雨に入ったせいか少し気温が下がった。そのせいもあるとは思うが、「眠れる森の婆」を心も頭も体もはっきりと起こしてくれる人達がいることを何よりも嬉しく思う。私のブログの発信がないことを気遣ってくださったてつまさん、いつも私に読書意欲を高めてくださる志麻子さん、私の娘明日香、そして「おーい、生きてるか?」とユーモラスに声をかけては覗いてくれる気付け薬のような夫、私は彼らに守られていると思うと憂鬱な5月もなんのその。その中で一枚だけの最高の写真「なんじゃもんじゃ」を投稿する。

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春の嵐

春の嵐が満開の桜を散らすように、日本国民の気持ちをわくわくさせて、日本人女性であることを誇りに思わせた小保方桜が散り際を賑わしました。
小保方さんの論文を改ざん、捏造と断じた理研のおじさま方の会見も、小保方さんの反論会見も、執筆アドバイザーと称する笹井副センター長の会見も、全て聞いて私は思いました。あくまでも科学には無縁の女性である私がです。
この論文は未完成のうちに、何らかの事情、理研と政府との思惑で発表せざるを得なくなったのではないか、小保方さんは論文にもう一ランク詳細なデータと証明を書き加えたものにしたかったのではないか、という気がしてならないのです。
なぜなら、小保方さんは「コツ」「レシピ」という言葉を使い、記者の「小保方さんがスタップ細胞を作るところをテレビ公開して見せることはできないのか。」という提案に「それができるなら私はどんな協力でもします。」とあんなに嬉しそうな顔を見せたではありませんか。この「コツ」「レシピ」こそが、彼女が一番書きたかったこと、書き加えたかったことではなかったでしょうか。でもそれができなかった理由が必ずあったのだと私は思います。彼女にとってこの論文は未完成だったと思うのです。
科学の科の字も知らないど素人が何を言うかと叱られるかもしれませんが、科学者としてではなく、同性として彼女の一挙手一投足を理解してやりたいと思うのは間違いでしょうか。この未完成論文を完成させてやろうという協力者がいないのかと思うと情けない気持ちです。世界に発信してしまって、日本の科学力に傷がつくなどと発言するちっぽけな人間にはもっと情けない気持ちになります。

今日の雨が桜の命を縮めないように!

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桜を追いかけて、近場をめぐりました。お隣の桜は2分咲き、焼津の木矢川堤は4~5分咲き、島田の中島公園は5分咲き、静岡の美和堤公園は5~6分咲きでした。
今日の暖かな雨は開花を進めこそすれ乱すことはないと思いますが、強い風が時折窓ガラスを打つと心配になってお隣の庭を覗いてしまいます。明日晴れたら、薩摩土手の桜を見ながら歩きたいと思います。

あなたは卒業を前に何を考えますか?

今週のお題「卒業」
昨年も卒業について書いた記憶があります。今年は卒業を迎える前の、どこの家庭でも見られる情景、でもこんな情景もあったのかと胸がつぶれました。
「さくらさく」こんな電報を受け取って、家族で手を取り合って肩を抱き合って喜び合った記憶、そんな幸せな情景とは全く違った意味で、「さくらさく」を48年ぶりに受け取って、これからの人生をどう生きればいいのかを考えなければならない方がいらっしゃるのです。
静岡地裁の3分咲きほどの桜の下で繰り広げられた、「再審開始」の白旗やのぼりが打ち振られる感極まった会見は、これまでの道のりがどんなに長かったか、どんなに苦しかったかを物語って余りあるものでした。
再審開始を願い戦い続けて来た多くの支援者や家族(たった一人のお姉さん)が48年かけて「再審開始」の桜を咲かせ、「長い間ご支援くださり有難うございました。ただただ嬉しいの一語でございます。」と言うお姉さんの言葉に静岡地裁の庭は桜を満開にするほどの喜びに包まれました。
1966年、清水市の味噌製造業の一家4人を殺害し、放火したとして強盗殺人と放火の罪に問われ、犯人とされた袴田巌さんが死刑判決を受け、48年間も死刑囚として独房に収監されたのです。その間袴田さんは無罪を叫び、それを信じ再審請求を出し続けた肉親のお姉さん、そして多くの支援者、弁護士、法律家などが検察の証拠を否定し続けましたが、27年後に再審請求は棄却されてしまったのです。
それでも再度、再審請求を出し続け、ついに今年3月再審請求が認められ、しかも再審決定と共に釈放されるという裁判史上初の決定が下されたのです。
裁判官の「死刑の恐怖の下で長期間にわたり身柄を拘束されてきたことを思えば、これ以上の拘置を続けることは耐え難いほどの正義に反する」として釈放を下した勇気ある判断は、大岡裁きを見るような法にも情があることを私たちに感じさせてくれました。
その一方で捜査を厳しく批判され、証拠捏造まで指摘された検察や警察は当然東京高裁に控訴し、最高裁まで進むと思いますが、決定的な証拠が出なければ判定が覆るとは思わないというのが専門家の意見のようです。48年の間には科学捜査の進歩は著しく、DNA鑑定も48年前よりはるかに正確で、それらの証拠を覆すのは容易ではないというのです。
袴田巌さんの無罪が確定するのはそれほど遠くないとして、本当の犯人はどうしているのだろうと思うといたたまれない気持ちになります。48年間も無実の人間に罪を着せてのうのうと潜んでいる真犯人を許すことはできません。そして冤罪を作る権力も許せません。
許せないことはあっても、人は、生きることを止めるわけにはいきません。袴田さんも残された人生を、失われた48年を取り戻す気持ちで、健康に生きて欲しいと思います。「さくらさく」の便りを誰よりも袴田さんに私からお送りします。あなたにとってこれからが卒業の時です。

 

 

 

 

子供の心に残る絵本

今週のお題特別編「素敵な絵本」
毎晩、娘が私の枕元へ持ってくる本は決まっていました。2冊抱えて来るのです。「替わりばんこにしようね。今日はどっちを読む?」
娘が好きな本「ごんぎつね」と「もぐらとズボン」はどちらも結構長編だったので、本職の一仕事と家事労働が終わって布団に入ると一冊が限度でした。
「ごんぎつね」は、ゴンが兵十に撃たれる所までたどり着かなければ終わることはできませんでしたが、「もぐらとズボン」は、くもさんを抜かすと「糸ができないよ。」と言われてしまうし、エビガ二さんを抜かすと「ズボンができないよ。」と言われてしまって、ごまかしはできません。子供は、絵本に登場する動物の順序までしっかり聞き取っているのだと感心したものでした。
娘が小学校3年生の頃だったと思いますが、二人で駿府城公園の周りを自転車で走っていた時のことです。池の水に土手の桜が影を写し、土手の斜面は真っ赤に染まっていました。彼岸花曼珠沙華の花)が満開だったのです。
その時娘は言ったのです。「お母さん、ごんぎつねだね。」と。
娘は、青い空と白い天守閣の見えるあぜ道に、真っ赤に咲く彼岸花を踏みしめて進む兵十のおっかあのお葬式を見つめるゴンになっていたのです。「そうだね・・・」と言うしかありませんでした。
3歳か4歳の時、私が眠気と戦いながら読み聞かせていた絵本の情景を、成長した今でも思い描くことができたのです。幼児期の読み聞かせが、どんなに大切かを、我が子を通して実感した瞬間でした。