カレンダーに予定が増える春
今週のお題「春になれば」
一か月も前からの約束で、ずっとお天気続きだったのに、不運にも今朝からの大雨で傘を差しての外出になってしまった。今は皆退職しているが、元同僚で何年ぶりかの再会である。「ぶどうの丘」というお洒落なレストランを予約してくれたのは元リーダーで、私たち4人は挨拶もそこそこに空白の10年間の話に花が咲く。
長い介護の末、ご主人を亡くされても孫たちに囲まれて明るく元気な彼女、反物の染色を始め、二人の孫に着物をプレゼントした彼女、心臓のバイパスと弁交換の手術をし、偶然にも執刀医が同じだった二人、でも一人の彼女はツアーの海外旅行を楽しみ、もう一人の私はパソコンを楽しみ、豆を挽いてコーヒーを味わう。
この十年間がそれぞれの人生にとって、辛いことも、苦しいことも、嬉しいことも、楽しいことも一抱えにして、かけがえのない時を刻み、今を生きているんだなと思うと高齢化も捨てたものではない。
窓の外は朝より激しい雨になっている。だが「春一番」は未だのようだ。一雨降るごとに、一風吹くごとに春は近づき、花々は満開を迎える。寒さの頃は真白だった私のカレンダーも、記述が増えて来た。浜松、藤枝、焼津のお花見、学習会や読書会、小学校の同級会、第二東名お花見ドライブなど、春は人を幸せにする。
家に帰って庭の水仙を見た。1週間前は蕾だけだったのに、雨の中で可憐な花びらを一杯に開いている姿に思わず顔がほころぶ。春だ!春だ!
痛み
浪江町の大川小学校では、教師がいたにもかかわらず子供たちの避難誘導が遅れて、津波に飲まれて亡くなった生徒の親たちが、人災であるという理由で損害賠償を求めて裁判を起こしました。
泥にまみれて拾い出されたたくさんのランドセルが、ずらりと並ぶ様の何と痛ましいことでしょうか。このランドセルを背負っていた子供たちは一人も救われること無く、津波の瓦礫に押し流されてしまったのです。親たちの悲痛な叫びが日本中の親の心に届かないはずはありません。皆針で刺されるような痛みを感じているのです。わが身に置き換え苦しんでいるのです。少しでも、少しでもその悲しみを分かち合えるものならと。
でも、訴える相手は何処にいるのでしょうか。
何としても子供たちを守らなければと、どんなに踏ん張ってみても想定外の津波に勝てるはずもありません。取り返しのつかない大きな判断ミスを犯してしまったという何千何万倍にも増した責任の重さと戦いながらも、一人でも助けなければとあがき苦しみながら瓦礫の下に沈んでいった教師たちが訴えられる相手なのです。
学校の裏山に一本でも避難通路があったなら、学校や地域住民、自治体に津波による防災意識がもう少しあったなら、先生方がもう少し頭を柔軟にして、避難の方法を試す時間があったのでは、とか悔やまれることはたくさんあります。それらが生かされてこそ未来が見えてくるのでしょう。
裁判がどのようであれ、私にはこの痛みを秤にかけることはできません。あまりにも悲しすぎます。二度とこのような悲劇を生まないようにと、全国津々浦々で防災対策が進んでいることはせめてもの救いです。
震災から3年経った今
これはプライベート日記に記録した非公開の記事ですが、皆さんにも共有してもらいたいと思い、ブログに載せました。
日本人のみならず、世界を震撼させた東日本大震災から3年の月日を数える今日、日本全国で慰霊祭が行われました。被害状況は、死者1万5884人、行方不明者2633人、震災関連死者2916人、避難者26万7429人という数字が発表されました。想像を絶する数字に、改めて風化させてはいけないと心に刻みました。
被災地の復興状況はまちまちで、復興予算の4割ほどしか使われず、2兆何千億もの基金が銀行に眠っているというのです。これは一体どうしたことでしょうか。人手不足、資材不足、土地の高騰で入札できない状態で、新しい町や村の建設が進まないというのです。なぜそうなってしまうのかと言えば、東京オリンピックへ向けた建設で、人手も資材も東京へと流れ、東北は置き去りにされているというのです。
ソチオリンピックをあんなに楽しんで、東京オリンピックへの期待で胸が膨らんだのに、それが東北の復興を妨げているという現実に、今こそ政治力が必要ではないかと強く思ったのです。
都知事選に出馬して落選した元総理が「安倍さんが東北復興が先だから、オリンピックは辞退すると言ったなら、世界の日本を見る目は敬意に変わっただろう。」と奇しくも言っていましたが、まさに日本の政治力が試されているのです。政治のかじ取りはできなくても、国民としての心のかじ取りはきちんとしなくてはなりません。
、
好みの変化は歳と共に
歳と共に変わるもの、変わってきたことは山ほどあります。体力、体系 は当たり前のこととして、体位、体制、体勢など体のつく部分は数えきれないほどあります。
でも私が一番変わったなと思うことは、若い頃はあんなに好きだったのに、この年になって我慢できなくなってしまったのはどうしてなんだろうと不思議に思います。
それは歌です。こぶしがきいて、さびをきかせて、情感たっぷりに歌う歌謡曲を、私の耳というか心が受け付けなくなってしまったのです。無理な発声で苦しそうな歌声は、歌詞の情に合っていたとしても、私が苦しくなってしまって聞いていられないのです。
私の後輩で声楽の勉強をしたことのある方が「声帯が共鳴してしまう」ということをよく言いました。自分が歌ってもいないのに歌ってしまうとはどういうことか、その頃は良く分かりませんでした。でも今はわかるような気がするのです。曲は好きでも声が自分の喉を潰してしまいそうな共鳴に共感できず拒否してしまう、そういうこともあるのではないかと思います。
自然体の発声法で、ゆとりと幅のある声、透明感のある声、この三つの願いが叶えられる私の好きな歌手はテレサ・テン、由紀さおり、ジュリー・アンドリュース、サラ・ブライトマンでしょうか。透明感のある声では、世界一と思えるサラ・ブライトマンのコンサートをテレビで聞いた時には、カミナリに打たれたような衝撃でした。それからというもの、彼女たちの声が聴けそうな番組は必ずチェックするように心がけています。
このように好みが変わってしまっても音楽そのものは大好きです。朝起きたらクラシック音楽を流して、コーヒーを飲みながら、焼き立てのパンを食べる、そんな夢を描いています。半分は叶いました。これからの人生に、あと半分をかけてみましょう。
ヨーグルト試してみてください
今週のお題「花粉症対策」
「花粉症」という言葉は随分昔から聞きますが、50歳ぐらいになるまでは他人事の話でした。
同僚が目を真っ赤にして「かゆい、かゆい」言っても「ものもらい?結膜炎?」などと涼しい顔をしているので、「目を外へ出して洗いたいくらいなんだから。」と恨めしげな声で大きなマスクの上から睨まれたりしたものです。
でも50を過ぎたら、突然襲ってきたくしゃみの連続、止まらない鼻水、目の淵や白目の痒さ、鼻の孔耳の穴の痒さにマスクとティッシュペーパーは手放せなくなりました。家にいる時はティッシュの箱を抱えて歩くほどで、月に一度の廃品回収ボランティアの参加賞には「花粉の季節が終わるまではティッシュペーパーにしてね。」と夫にお願いするほどでした。
今まで他人事と構えていた「花粉症」に自分がなるとは夢にも思いませんでしたから原因を考えてみました。思い当たることは一つ、風が強かったのにマスクもせずに買い物に出かけたことです。ハンカチで流れる鼻水を抑え、くしゃみを数えきれないほどしながらやっと家に帰り着き、目から鼻から喉から丹念に洗いましたが、花粉は私の体の中に居続け4月中ごろまで私を苦しめました。
「アレルギーの素は、人が生まれた時から体内に蓄積され続けて、飽和状態になった時にアレルギー症状を発症させる。飽和状態にならなければ症状は出ない。」ということを何処かで聞きかじったことがありました。強い風に乗ってたくさんの花粉が、私の鼻から目から口から一度に侵入したので「花粉症」を発症してしまったのだと学習しました。
ところがです、今年はどうしたわけか花粉症の症状を発症しないのです。勿論学習したことは守り、夜休む時はマスクを着用していますが、これだけ花粉情報が報道されていれば、毎年悩まされ続けた3か月間なのに、私の体に何が起こったのかと思いました。
思い当たることは一つだけあります。もう2年以上、毎朝必ずヨーグルトを食べているのです。種類はいろいろですが、甘味のついていない無味白色のヨーグルトを食べています。量は、400gほどのひと箱を夫と二人で二日に分けて食べますから、一日に100gというところでしょうか。2年以上も続けたご褒美が、花粉症の改善につながったのかもしれないと密かに思っています。
外で働く方々は、こんな呑気なことを言ってはいられないので、もっと早く効く薬の対処法が適当と思いますが、既に何種類かの投薬がある方は食べてみるのも一つの方法かと思います。