mtk13465003's diary

素敵な七十代を楽しく生きるために!

遠い記憶を今に映す

敗戦記念日と私は言う8月15日がやってきました。
お隣の佑ちゃんとの遊びは何時も防空頭巾をかぶって「バクダーン」と頭を抱えて防空壕へ飛び込むこと、4歳の私たちには乾パンを抱えて屈託のない時間でした。
私たちの家は兵舎の前にありましたから大人たちはここが真っ先に狙われるだろうと、覚悟していましたから、空襲警報と同時に私はお祖母ちゃんの背中に背負われ、深々とはんてんをかけられ落ちてくる焼夷弾をくぐるように逃げました。はんてんの隙間かそっと覗くと消防署や建物が燃え盛り火の海でした。
逃げる行列は山の方へと向かい、立ち止まっては深いため息をつき、また歩き始めたその時に突然「あー落ちた落ちた。」という叫び声が広がりました。「何が落ちたの。」と聞くとお祖母ちゃんは「B29が燃えて落ちたんだよ。敵地のど真ん中へ落ちて兵隊さんはどうなるんだろうねえ。」このむごい顛末を知ったのは随分大きくなってからでした。
山奥の親せきに疎開させてもらって、今までと違い何でも遠慮しながら生活しないと生きられないということが幼い私にもわかってきました。お祖母ちゃんは20キロの山道を私を背負い、まだ暗いうちから「お母ちゃんに会いに行こうね。」と言って焼け野が原の町に出てくるのです。掘立小屋で毎日職場に通っていた両親は「お祖母ちゃん大変だからもう来ないで。どちらかが帰れる日は帰るから。」でもお祖母ちゃんは毎日続けました。「この子を親なし子にしたら可哀想だから。」というのがお祖母ちゃんの口癖でした。
仕方なく母は私を職場に連れて行きました。そこは、幼い私が思わず叫んだ「これが戦争なんだ。兵隊さんたちが血だらけになって唸っている。床に丸太のように寝かされている。」学校の教室も職員室も衛生室も隙間のないほど兵隊さんたちが寝かされている現場でした。
私の目に焼き付いているこれら6枚のパネルが幼い私の知っている戦争です。広島のことも長崎のことも知りませんでした。それどころか入学した小学校は民主主義謳歌に溢れ、勉強も楽しいことこの上なかったのです。先生方は休業時間は歌を歌ったり、バレーボールをやったり、ソフトボールをやったり、先生方が生き生きしていれば生徒への指導も明るくたのしいものでした。
広島長崎のことを少しずつ知るようになったのに、高校の教科書には、広島と長崎に原子爆弾が落されて、第二次世界大戦は日本の無条件降伏で終結した、程度の記述で修学旅行のコースに広島がはいることはなかったのです。
広島が修学旅行コースになってきたのは何と娘が高校生の時です。そんな娘が、語り部のお婆さんの話を聞いてワンワン泣き出したというのは有名な話らしいですが、そんな子も一人ぐらいあってもいいかなと思いました。
母親大会や、新婦人の会などに潜りで入れて頂いて広島、長崎を勉強したのは学生時代でした。機動隊のジュラルミンの盾にぎっしり囲まれてそれでも国会議事堂まで行こうとしっかり腕を組んで60年安保デモに参加したのも学生時代でした。何もかも遠い昔の話になってしまいました。